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そういえば、今まで日本で生活をしていて、道に迷う、ということがあっただろうか。
結局のところ、日本語が話せて看板に書いてある事が読めれば、小学生でも何とかなってしまうのではないか。ただ、単純に知らない土地へ初めて降り立った時、半分浮かれたように「ここで捨てられたら一人で帰れない」と、妙な冒険心とそうならない事を知っているという安心感が入り交じった感覚を、子供の頃の僕はたまに味わっていた。 だが、それが、日本語どころか、公用語であるはずの英語も通じず、文字も接したことのないもので、数字の表記すら異なっていた場合、どうなるか。答えは簡単だ。それこそ、道に迷っているのである。 そして、僕は道に迷っていた。何のソリューションも思いつかない、完全な迷子だ。いい年して。 メンフィスから、乗り合いバスでギザに戻ろうと運転手と交渉になった。他の客には50ピアストルしか要求していないのに、僕には2エジプトポンド払えと言う。日本円にしてもジュース一本買えない額ではあるが、妥協するのが嫌だった。その交渉にかける労力と、得る結果は、もちろんコストパフォーマンスなどは考えない。2時間かけて2ドルまけさせる、1ドルの交渉に1時間かけて結局買わない、などは日常茶飯事だ。 ビジネス視点では、ありえない無駄な行為だという事は承知のうえだ。だが、やはり負けたくなかった。特に、僕が日本人だから、という理由を振りかざしてくる輩に対しては決して妥協を許さなかった。 結果、交渉はどちらも譲らずに硬直状態。その様子を見ていた一人のおじさんが、「金はいいからまぁ乗りなよ、近くまでは乗せていってやる」と申し出てくれたので、有難く受けることにした。つまり、ヒッチハイクだ。乗り合いバスの運転手を意地の悪い目で一瞥し、「それみたことか」と口の中でつぶやき、荷台に荷物を降ろす。雲一つない青空を眺めながら、うとうとしかけた頃に急に車が停車した。 「さぁ、降りな。俺はここからはもっとローカルなところにいっちまうからな、後は自分でいけ」 「OK、助かったよ、で、ここはどのへんなんだい?」 「ギザまでは車で1時間てとこだなぁ、そいじゃぁな日本人!」 おじさんを見送りながら、ふと気づいた。こんな信号機も存在しない荒野、いや、むしろ砂漠から車で1時間というのは、一体どれぐらいの距離なのだろうか、と。周囲を見回した感じでは、乗り合いバスすらなく、当然にツーリストインフォメーションなどもあるはずもない。生活の足としてラクダが普通に闊歩しているような土地である。 誰かに聞いてみたほうが早いか、と声をかけるも誰もが首を横に振る。英語が通じない。僕はベトナム語のアビリティは若干あるも、アラビア語の知識は皆無だ。アッサラーム・アレイコムから先の会話は続くはずもない。地図もなければガイドブックもない、こうなると、異国というよりもどこかの異世界に紛れ込んでしまったかのようで、笑う余裕などないはずなのに不思議と気分が高揚しているのを感じた。 どうやら、「それみたことか」を発する側は、あの乗り合いバスの運転手のほうであったようだ。たかだか、1.5エジプトポンドをケチった為に、正真正銘の迷子となってしまった。 「まぁ、悩んだって仕方がない。ひとまず、落ち着こう」 僕は、少年が店番をする道端の雑貨屋へ入った。少年は、はじめ、物珍しい表情で僕を眺めていたが、さして気にするほどのことでもない事に早々に気づいたようで、「何がほしいんだい?」とジェスチャーで尋ねてきた。このコミュニケーションは、むしろ何の問題もない。指差せばいいだけだ。そして各地で実践してきたことでもある。僕は、コーラを指差した。以下は、全て身振り手振りと言語ではない何かで通じ合っていたやりとりである。 「はい、コーラ、1エジプトポンドだよ」 「…これ、ぬるいな。冷えたのはないのかい?」 「うちにはあんたが望むような冷えた飲み物なんて置いていないよ」 「ホントかなぁ…?じゃぁ、そこのクーラーボックスみたいなの開けてごらんよ」 「こ、これは…だめだ」 「やっぱりあるんじゃないか」 「これは、僕用なのさ、だからだめだ」 「あ~…喉かわいたな、冷たいコーラ売ってくれないかな~」 「しょ、しょうがないな…これだけだぞ」 最初に僕に売ったコーラと、氷で冷やされたものを交換してくれる。少年の心地よいとも言える商売熱心さに敬意を表し、コップに注ぎ、まぁ一杯やれよ、と勧める。少年もそれを笑いながら受けてくれた。「めざといな、あんた」とでも言っているようだった。 知らない土地の知らない街で、現状を忘れて、こんなやり取りをしている自分もまた、余裕があるもんだな、と思った。 さて、これからどうしたものか、と道行くラクダを眺めていて、ふと思いついた。 「少年、紙と書くものを貸してくれないか」 紙に、僕の最大限の絵心を駆使して、立体的なピラミッドを描く。ギザといえば、あれしかない。 下手にスフィンクスを書いたら、メンフィスに連れ戻されてしまう可能性もあった。 絵の中の棒人間、つまり僕がピラミッドに行きたい、という絵をすぐに理解してくれたようだ、ちょうど、少年の妹達を連れて、父親がそのあたりまで行くから乗っけていってやる、そんな返信を、これまた絵でもらった。ヒエログリフよりも単純でわかりやすいな、と苦笑した。 ![]() しばらく店の前で佇んで待っていると、頭に荷物を載せた子供がやってきた。やはり、物珍しそうな顔で僕を見ているようだが、少年から何か聞いていたのだろう、ビスケットをおずおずと一枚、僕に差し出してくれた。「シュクラン(ありがとう)」と数少ない僕のアラビア語でお礼を言うと、矢継ぎ早に色々話しかけてくる。さっぱり意味はわからなかったが。 とにかく、やはり旅はケ・セラ・セラ。なるようになるものだ。 途中、少年の父親が気を利かせたのか、頼んでもいない場所を色々連れまわしてくれたり、シミットをご馳走してもらったりして、ギザに着いたのは夜になってからだった。 「少年に、これを渡しておいてほしい」 と、カイロの宿で他の旅人とトレードした粉末ポカリスエットを一袋、父親に預けた。 冷えたコーラのお礼のつもりだった。エジプトにはないポカリを冷やして味わってみてくれ、そして、また僕のような旅人がいいタイミングで彷徨いこんできたら…今度はそのポカリを振舞ってくれ、とそんなシーンを想像して、一人、笑いをこぼしていた。 今日も、夜空が綺麗だ。
バックパッカーと呼ばれる人間達が、何を目的としてどんな理由で旅をしているのか、と聞かれると答えがなかなか難しい。単純な興味、どれだけの国をいかに安く周れるか、何かに感銘を受けた、世界遺産周遊など、人によって様々だ。
僕の場合、日本社会に打ちのめされ、自分の小ささを実感して、見聞を広めにいった…と書くともっともらしいが実際は逃げていただけなのかもしれない。 ただ、少なくとも僕が出会い、袖振り合った仲間達はどこか皆、同じような影があり、似た境遇で飛び出してきたというケースが多かった。時期的なものもあったのかもしれないが…。 ただ、それは単なるキッカケに過ぎず、そもそもの予測すらしていない状況下では、旅の途中で目的が変わったり、生まれたりすることも多々ある訳で、おそらく、初めから初志貫徹を貫くタイプの人間は少ない。そして前提でもなければ、そうでなければいけない法などないが、やはり捨て身である事が重要だと思う。長期休暇や、大学生が親のお金で旅をしたり、といった諸々の心配をせずに済む旅人は、どこか考えが甘かった。そしてそれらはある種の保障でもある訳で、切羽詰まった、といった状況に陥る事がほとんどない。だから、僕らとは違う、と感じたのが正直な感想だ。どちらが上位とも下位とも考えたことはないが、あえて言うなら僕らのほうが、社会には不適合であったのは旅人という現状の結果でわかることだ。 そんな中でも、さらにイレギュラーなタイプが稀にいる。 日本人宿、というのは各地に存在していて、オーナーが日本人である事はまずないが、なぜだか同じ日本人が口コミや評判で集まっている宿を指す。敢えて、ここを避ける人間も少なくはないが、必要な情報が揃っているという点においては、何よりも便利で役立つ。 ベトナムの古都であるフエで、僕はビンズオンホテルという日本人宿で腰を落ち着けていた。それまでの間が、始終、イスラエリーとスパニッシュだらけで、たまには同国人と会話を楽しみたいというのが強い動機ではあった。 レセプションでは予想通り、漫画(なぜだか廉価版ゴルゴ13が多い)があり、情報ノートがあった。漫画は夜の楽しみにしておくとして、ソファに腰掛け、情報ノートをパラパラとめくりながら、付近の穴場観光情報や食堂の情報に目を通していると、誰かが話しかけてきた。 「あの~…」 「はい?」 「シェアしませんか?ドミあいていないらしくって」 シングルルームを複数で借りて宿代を浮かそう、と持ちかけてきたのだ。日本人だからと無条件で信用してはいいものでもないが、大事なものは肌身離さず持っているのもまた常識である訳で、薬を盛られるか、よほど強引な手段に出ない限りはそんなに警戒する必要もない。 しかし、驚くべきは彼の格好だ。肌は現地人のように真っ黒に日焼けして、着ているシャツも靴もボロボロ、おまけにバックパックではなく、黒いゴミ袋を背負っている。こういっては何だが、旅人というよりは野良仕事を終えて帰宅したばかり、といった感じであった。 彼は、名をヒロシといった。年は幾ばくも離れておらず、1つしか違わない。 「シェアはOK、しかし、すごい格好だね?」 「あ~、これ元は真っ白だったんですけどね…ハハハ」 アウトドアな子供に3年ぐらい着せれば、近い状態になると思った。 相当長い期間、旅をしているのかと思い、尋ねてみると、まだ1ヶ月半しか経ってないという。 「まぁ、相棒があいつなもんで」 彼が指差す方向を見ると、そこにはやけに存在感のある、一台のボロボロの中国製自転車があった。 ![]() 「まさか、自転車で、旅を?」 そのまさかだった。彼は1ヶ月半前に、神戸から船で上海に渡り、そこでこの自転車を購入した。そのまま海沿いに香港、海南島を越えてベトナムに入り、ここまで漕いできたのだという。道中、当然に野宿をするシーンにも遭遇したが、フエに入ってから蚊の被害がひどい為、静養と充電の意味の含めてエアコンのある部屋に泊まりたかったのだという。 僕は俄然、彼という人間に興味が沸いた。 「目的地は、どこなの?」 「とりあえず、シェムリアップかな。サイゴンまで南下して、それからカンボジア入りしますよ」 ということは、今現在で、約半分ほどの工程だ。 陸路で、それも乗り合いバスで上海からシェムリという話であれば、別段難しくない。途中で観光を入れたとしても、2週間もあれば可能だろう。だが、自転車となると話は別だ。なにせ、人力なのだから。そして季節は夏。熱帯モンスーン気候である南ベトナムへこれから突入しようというのだ、過酷な旅だ。あまり詮索はしない、されたくない、のがマナーではあるが、聞かずにはいられなかった。 「なぜ、そんな思いをしてまで自転車で?」 「いや、馬鹿だと思われるんだろうけど、アンコール・ワットをね、見たいんですよ」 そして彼は続けた。 「自転車で苦労して苦労して、途中でくたばってしまうかもしれない、命だって落とすかもしれない、そんな状況を乗り越えて、たどり着いた先がアンコール・ワットだったら感動するじゃないですか、絶対、泣けると思うんですわ」 つまり、人よりも感動したいが為に、自らを窮地に追い込んで、しなくていい苦労をしている、というのだ。色々なタイプの旅人を見てきたが、彼ほど自分に課している条件が厳しい人間はいなかった。そして、僕は割かし、この手の酔狂が好きだった。とても真似できるものではないが。 彼に酒をおごり、部屋で乾杯し、これからベトナムの旅を続けるうえで役立ちそうなコトバをメモ帳に書き記しながら、上海からの旅話を聞かせてもらう。そのほとんどは、野宿に関る話ではあったが、ここに来て、初めて楽しいと思える内容であった。 翌朝、旅立つ彼を見送りに玄関まで出た。どうやら本当に黒いゴミ袋がバックパック代わりのようだった。文明の利器といえば、何故か大事そうに抱えている一眼レフカメラのみだ。 「パスポートとかはどうしているんだ?」 「全部この中っすよ」 パンパン、と口を片結びで止めているだけのゴミ袋、いや、バックパックを叩く。肝が据わっているというか、投げやりというか…いや、おそらく彼は危機意識が薄いのではない。全てを覚悟のうえなのだ、と思った。 「そんじゃ!」 と、力なくフラフラと漕いでいく彼を、応援せずにはいられなかった。 「絶対たどり着けよ!!」 振り向き、親指をビッと立てて、まかせとけとでも言わんばかりのサインを送ってくる。 狭い路地から急発進したセオムにクラクションを鳴らされ、ヨロめきながら視界から消えていく。なんだか、自分が旅の主役だと思い込んでいたものが一転して、観客になっていた事に気づいた。だが、それは悪い気はしなかった。事実、彼は文字通りの過酷な一人旅なのだ。そして、明確なゴールがある、それだけで、ストーリーとしては彼のほうが完成されているのだから。 それから、南下する旅人に機会があれば彼の話をして、姿をみかけたら応援してやってくれ、と頼んだ。 以下は、実際に彼から受け取ったメールである。 ------------------------------------------------------------ フエから十日ほど経って、ようやくホーチミンに到着しました! ハイヴァン峠、ホンマきつかったっす!あれからニャチャンで三泊ほど休憩してたんすけど、御父参カフェで「こんな自転車で一日に150kmは走りすぎだよ。」って注意されてしまった。なんやかんやで今は喧騒のホーチミン。知らない間に自分は有名になってるらしく、よく知らない日本人にたまに声掛けられてます。恥ずかしいっすね、ゴールはまだ先ですし。「もしかして伝説の上海から自転車で来てる人ですか?」って話し掛けられたときはさすがに笑っちゃいましたけど。マサくんと会ったっていう子居ましたよ。シェムリまであとちょっと。もうひと頑張りですわ。 ------------------------------------------------------------ どうやら、無事でいるらしい。 そして、それから一ヶ月半ほど経過した頃だろうか、ついに到着の知らせが届いた。 ------------------------------------------------------------ いやー!なんとかゴールしましたよ! 結局、泣くことはなかったですけど、やっぱりアンコールワット最高ですね! 感動しました。今は、カンチャナブリで静養中です。疲れとって帰国します! 応援、ほんとありがとうございました! ------------------------------------------------------------ 数ヶ月の苦労を凝縮しすぎな簡単なメールだったが、何となく伝わった。 彼の物語は、これで幕を閉じた。観客としては、いいものを見せてもらったという気持ちであった。僕は、いつになったら、舞台に上がれるのだろうか。そんな風に考えていた。 そして、それから半年程も経った頃だろうか、メールでやりとりする仲間も東南アジアを旅していた時とは入れ替わり始めた頃、僕はエジプトのルクソールにいた。 同じように、情報を求めて日本人宿に入ると、卒業旅行で来ていた大学生二人組みが話しかけてきて、意気投合。そのまま夕食に出かけた。 「そういえば、さっきすごい人見かけたんですよ」 「あー、彼ね、年季入っていたなぁ」 「いえ、実はね、ルクソールの駅で、トイレに行くから自転車見ててくれって言われて」 まさか…。 「それが、アレキサンドリアからずっと自転車らしんですよ、それも人民チャリで。スーダンのほうまで行くって言ってたけど、内戦中だし、大丈夫かなぁ」 「その彼は、名前は名乗った?」 「いえ、聞きませんでした。ただ、前にも東南アジアで同じようなことやったって言っていました」 「そっか…その彼なら、大丈夫だと思うよ」 たぶん、僕の知っているヒロシなのだろうな、と思った。あれからメール連絡は取れなかったので心配ではあったが、何のことはない、彼の物語はまだ終わっていなかった、それだけなのだ。ただ、僕もこの時、僕だけの物語の途中であった。 お互いに、いい旅をしようじゃないか。 ルクソールの空を見上げて、ガッツポーズを贈った。
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ここ最近の日本の子供達は、少し大人びていると思う。 自分のチカラで稼ぎもせず、自立もしないうちから、いっぱしの口をきく。そして、親から与えられたものを当然と思い込み、他の子が持っていなければ優越に浸り、逆だと欲しがる。隣の芝生は青く見えてしまうのだろう。モンスターペアレント、なんていうコトバもあるぐらいで、特に自分の子供に甘い親が目立つ昨今では顕著にあらわれてしまうものなのかもしれない。 但し、別に彼ら子供に罪はないし、僕自身も広い世界のことなどてんで知らないまま平和で普通の家庭に育ったこともあり、何も言う資格はない訳だが。 「ギブミー100円、バクシーシ、マネー、マネー」 と、痛ましい風貌の子供達から手を差し出されたことなど、それこそハローを口にした回数よりも多いのではと思うほどだが、しっかりと商売をしている子供達も東南アジアには多い。 カンボジアはシェムリアップ、今や危機遺産でもある、アンコール遺跡群が存在する場所だ。一週間用の入場券を買い、トゥクトゥクに揺られてワットへ到着した時、僕がまず気にしたことは、スーリヤヴァルマン2世の偉業の賜物ではなく、物売りの子供達だった。 ![]() 僕を視界に捉えたかと思うと、何十という物売りの子供達が群がってきた。手には、ポストカードや布、手作りらしいアクセサリーなど、明らかに正当ではない値段を口々に、何も発しないうちから勝手に交渉が始まっている。「ノーサンキュー」と振り払うと、どこで覚えたのか、意味をわかっているのかいないのか、日本語で「オマエ、スケベ!」「バカ!カワナイ、バカ!」と罵りながらも執拗に後をついて来る。 そしてそのやり取りは、アンコール・トムでも、ベンメリアでも、タプロームでもどこでも同じであった。40度を超える炎天下の中、石造りの遺跡しか存在せずに木陰すらないような不毛の場所でも、気づくと、傍らで「ハロー、ミスター」と声がかかる。 僕は、以前にも述べた通り、物乞いには決して応じない。但し、物売りは別だ。だが、必要なものであれば買うことに戸惑いはないが、これから寒い懐事情を抱えながら旅を続けていく身にとっては、彼らの商品は、あまりに観光客用すぎた。結局、全てを振り払うことになる。 ![]() その夜、シェムリの街に戻り、屋台で軽く夕食を済ませた後、やはりいつものように危ない目をした野犬に背後をストーキングされながら、早めに部屋へと戻った。この時、まだゲストハウスへは移動する前で、現地慣れするまでの間、やや高めの宿に泊まっていたのだ。とはいっても、一泊12ドル程度だが。 シャワーを浴び、コーラを開けて一息つきながらタイ人のリポーターが出ているMTVを観ていると、ドアをノックする者がいることに気づく。 「誰だ?」 施錠を外さずにドア越しに問う。すると、返ってきたのは子供の声だった。 「ドア 開けてください 大丈夫 大丈夫」 たどたどしい英語で、ノープロブレムを繰り返されたところで、安全じゃない事はベトナムで経験していたが、それが少女の声だったのもあってか、開けてしまった。 「20ドル ください」 初見で、額面まで提示されたのはさすがに初めてであった。物乞いの侵入を許す宿だと知っていればおそらくここには泊まらなかったに違いない。僕は、手を振りながら「ノーマネー」とつぶやく。宿を借りていてそれはないな、と自己矛盾にすぐに気づいたが、他に言いようもなかったのだ。 「15ドルでいいです 一晩」 …一晩? 「あなた 私 買う 一晩」 似合わない化粧をしてはいるが、どう見ても10歳~12歳ぐらいの少女から、そんなセリフが出たことに驚愕を隠せなかった。つまり、売春婦なのだ。宿への帰路、真っ暗な道にやけに目立つピンク色の蛍光灯の明かりを放つ店があちこちにあったが、あそこがそうなのかもしれない。 このこは、そのうちのどこかに所属していて、自ら営業に回っている。そして、おそらく宿ぐるみで外国人や観光客の泊まっている部屋を共有しあって狙いを絞っているのだろう。 「申し訳ないが、買えない、帰ってくれ」 僕がそう言うと、彼女はガクっと肩を落としてしばらく無言になった。 「…帰る 怒られる 怖い」 彼女の放つ一言一言が、いちいち胸に突き刺さる。想像に難くない表現で、そしてその想像はおそらく当たっているのだ。このまま客を取れずに置屋に帰ると、酷い仕打ちにあうのかもしれない。泣き落とし、という雰囲気でもなかった。僕で何人目の交渉かは知らないが、時間は22時を過ぎていた。僕は、同情を禁じえないシーンでもあったせいか、彼女を部屋に招き入れ、そして20ドル札を手渡した。彼女はニッコリと笑って、服を脱ごうとする。 「いや、服は脱がなくていい、何もしなくていい」 「だめ お金もらった だから…」 「お金は、朝まで君の自由を買ったんだ。だから僕の言うようにしなさい」 これが偽善と言われれば、そうなのかもしれない。ただ、純然たる善意としてではなく、一体彼女に、どんなバックグラウンドがあってこんなことをしているのか、興味が沸いたこともある。我ながら青臭い行動だと気づいてはいたが、正直なところ、幼女を抱く趣味もなければ別にそういう目的で旅をしている訳でもないことは明確だった。おそらく、ドアを開けてしまった時点で僕の負けだったのであろう。 ひとまず彼女にシャワーを貸し、その間にレセプションでコーラを調達に行く。ボーイが「おまえも、スキモノだな」とでも言いたげな卑猥な視線と笑みを僕に向けてきたことに吐き気を覚えたが、他人から見れば、僕は幼女を20ドルで買った日本人なのだからしょうがない。明日には引き払う必要があるな…と、愛想笑いを浮かべて部屋に戻った。 彼女は、何もしないのでは物乞いと同じだから、と言いながら僕のバックパックを開け、下着も含めた衣類を取り出し、綺麗にたたんでくれていた。これまで、海外においては命の次に重要ともされるものや、カード類も分散していたりで、他人に一切触れさせなかったバックパックだったが、何故だか彼女には許せた。それが手段で、盗まれてしまうようなマヌケな羽目になる可能性も十分にあったのだろうが。 コーラを勧めながら、色々と聞いた。彼女は旧ポル・ポト政権下にあった村で育ったこと、実の親は生まれた時から知らずに、仮の親代行のような人のもとで10人の姉妹兄弟とともに生活をしていたこと、とても貧しかったこと、つまり、カンボジアという国の歴史が生み出した闇の部分である。そして… 「お父さん TVを買いたい だから 私売られた」 僕の理解が間違っていなければ、確かにそう言った。つまり、育ての父である人がTVを家に導入したいが、金がない為にこの子を置屋に売ってしまったというのだ。なんという、強烈な人生なのだ。たかがTVの為に、人を売り買いする。その時点で、育ての父という人間がどういう性格、性質なのかも想像に難くない。そして、彼女は続けた。 「日本人 お客さん 多い よく買われる」 「年の若い子供 セックスする為だけに来る人もいる」 気づくと、涙を流していた。同じ日本人として申し訳ないと思う気持ち、彼女のあまりに悲惨な人生とそれを普通に受け入れている事への葛藤、そして僕には解決しようもない不甲斐なさ、そしてそんな義理もないことを知っていた。あまりのどうしようもなさに、思考がオーバーヒートしてしまったのかもしれない。「いつか、いいことがあるから」「誰だって幸せになる権利がある」なんてお決まりのセリフは間違っても出てこなかったし、そんな無責任なことを彼女に対して言えるものでもなかった。 夜も更けてきたので、ベッドを譲り、僕用に硬いイスにブランケットを敷いていると彼女が眠い目をこすりながら寄ってきた。 「一緒に寝たい」 その言葉に卑猥なトーンは一切なく、たかだか数時間のつきあいである僕を信頼してくれたような、そんな感じがした。やはりまだ、子供なのだ…。経験としては日本のどんな人間よりも深い部分、汚い部分を知っているような子だが、見た目の通りなのだ。 翌朝、チェックアウトと同時に彼女とお別れをした。きっと、今夜も違う宿で営業をする、いや、しなければならないのだろう。考え始めると暗い方向へとばかり進んでしまうので、昨夜、彼女の子供らしい寝顔を見ながら考えるのをやめた。僕は一言、こう言った。 「グッド・ラック」 彼女に幸運を。 次の宿を探して歩いていると、昨日、しつこかったジュース売りの子供達が、めざとく僕をみつけて近寄ってきた。 「ジュース買って!ミスター!2,000リエルでいいよ!」 ![]() 「一本もらおうか」 昨日の攻防が嘘のようにあっさりと決着が着いた事に拍子抜けしているようだった。 だが、僕には特に不思議はない。物売りの子供達との境界が、少し狭まり、そして僕自身の生き方へも変化の兆しがあらわれはじめた、ちょうど、そんな事があったからだった。 無知は罪だ、とは言わない。が、知る事によって変わる事もある。 そんな一晩の体験だった。
ベトナムの朝は早い。旧市街、ターヒエン通り沿いの安宿の4階、窓も無いその部屋に長逗留していた頃は、日本から持参した目覚ましではなく、バイクのクラクション、人々の喧騒で目覚めることが、もはや日課となっていた。
その雑踏をBGMに、早めのシャワーを浴びる。フロアごとに蓄えられた温水タンクには限りがある為、夜は使用できないことが多かった。なので、温かいお湯で身体を洗うには、朝一は狙い目だった。こうして、日本ではない国で新しい自分だけの日課ができたことで、ささいなことではあるが、色々なしがらみから開放されていくような気分を味わっていた。 ベトナムへ初めて訪れた時は、深夜だった。そして同時に始めての海外でもあった。 ノイバイ空港から、舗装もままならない国道を通ってハノイ旧市街まで向かう道中で、とんでもないところへ来てしまったのかもしれない、と自責の念が耐えなかったことを思い出す。 どんなガイドブックにも、誰に聞いても深夜の徘徊は、危機管理上あまり良いものではない、という。日本でもそうなのだから、当然だろう。僕もしばらくは、どんなに夜遅くなったとしても22時には宿に戻るように心がけていた。 その一般常識のタガが外れたのは、バック一つで移動を開始した頃、つまり、名実共にバックパッカーとなった頃だった。そして、同時に深夜の楽しさを知ることにもなった。決して推奨するものではないが。 その日は、フエから列車でハノイに戻る日だった。 予定では、朝7時頃にハノイ駅に到着するはずが、予想通り、といっちゃなんだが大幅に時間がずれて3時半に到着した。周囲を見てもバックパッカーらしき仲間もいない、乗客達は慣れたもので、休む暇もなく各々の目的地へと散っていく。 当然、セオム(バイクタクシー)もまだ活動していない時間らしく、乗客達が去ったあとは閑散としていた。 僕は、旧市街までの道のりを歩いてみることにした。 いつも、気づくと街が活動を開始していたので、こんな時間のハノイを眺めながら歩くのも悪くは無い。ニッコーハノイ方面から、ティエンクワン湖へ向かい、昼は歩きなれた道を旧市街へと向かう。ふと、見慣れたはずのホアン・キエム湖が見えてきた。 ![]() 夜明け前の燻るような心地を感じずにはいられない、喧騒と雑踏に満ちた数時間後を連想させない、しかし、またハノイを象徴するかのような、靄に包まれた幻想的な光景だった。 僕は足をとめ、朝露に塗れたベンチに腰掛け、タバコに火を点ける。 露店の灯りだろうか、ポツポツと湖の向こう側が明るくなってきた。ハノイが、目覚める時間が近づいてきたみたいだ。おそらくほんの一瞬であろう、そんな静と動の合間を、ただ静かに見守るだけで僕は楽しかった。 今日もまた、暑くなりそうだ。
ラオスとミャンマーに挟まれた盆地にある、タイの京都とも呼ばれるチェンマイ。ここに到着したのは、8月の半ばを過ぎたあたりだった。相変わらずのむせ返るような熱気に気おされながらも、夕暮れの街を、宿を探してうろついている自分がいた。
![]() タイへの入国は、チェンライが初だった。ラオスの辺境にある国境、ファイサーイから船でメコン川を渡り、既に見慣れてしまった小屋のようなイミグレーションで、入国のスタンプを押してもらう。たかだか数百メートル程度の国境移動だったにも関らず、タイに入った途端に、気温が少し上昇したかのような奇妙な感覚を味わった。 ![]() 空は、抜けるような青空。絶好の移動日和だ。もっとも、ファイサーイでは電気の使用時間が制限されていて、日中はほとんど使えなかった。せっかくエアコン設備のある部屋を奮発して借りたのにほとんど意味を成さないことに加えて、朝からの猛暑で耐え切れないと一念発起してタイまでやってきた訳でもあるが。 国境からは、軽トラのような荷台に乗せてもらって、ひとまずチェンライまで自然を眺めながらの旅路となった。こうして、青空の下、荷台に揺られていると、自分で勝手に嵌めていた日本社会での足枷が次第に外れて軽くなっていくのを実感できる。それと同時に、強い郷愁の念も沸いてくるのには、いつまで経っても慣れないものではあった。 チェンライに到着したが、僕は留まらずに一気に次の乗り継ぎ用のバスに乗車した。行き先は、チェンマイだ。元気のある内に、行けるところまで行ってしまったほうがいいと思った。 バンコクからは北に約700km、その位置から見ても相当な田舎であると予測していただけに、着いた時の衝撃は大きかった。そう、僕の想像よりも遥かに都会だったのだ。 道は綺麗に舗装され、デパートがあれば大きなホテルもある。事前情報をほとんど何も調べずに東南アジア全域の曖昧なマップだけしか手元にはなかったので、いい意味で、期待を裏切られたようだ。 ドミトリーのベッドがちょうど一つあいた、という適当な宿に決め、荷物を降ろす。 若干の強行軍に疲れていた僕は、その暑さも手伝って外に出る気になれずに、泥のように眠りについた。 ふと空腹で目覚めてみると、時刻は21時。不思議と、10以上あるドミトリーに一人も旅人が戻ってきてはいない。珍しいこともあるものだ、と、その奇妙な空気に戸惑いながらも、パスポートとお金だけを持って、飢えを凌ぐ為に外に出た。 宿は、メインストリートからは少々入り組んだ場所に位置していた為、電灯も何もなく、野犬がうなっているような真っ暗で狭い道だ。うっかり足を踏み外して、何故かあきっぱなしになっているマンホールにでも落ちてしまったら大変なので、慎重に行かねばならない。 当初、どちらに進めばよいかわからなかったが、途中から気づいた。前方から、やけに賑やかな雑踏と、そして空まで染めるようなオレンジ色の光が見えていたからだ。 日本でも馴染み深い、セブンイレブンの脇からふいに、メインストリートへと出た。 ![]() 驚いた。昼よりも熱気に溢れる夜、という表現が適切なのだろうか、街中の道路という道路一杯に、屋台が立ち並び、まるで街全体がナイトマーケットと化したようだった。周囲は店をひやかす人混みと、そして威勢のよい物売りの声がそこら中から響いている。 幅の広い道路では、真ん中の空間までも屋台が出てきて、見渡す限りそんな光景が広がっている。 ここでは、夜が主役なのだ。 ラオスの静かな夜を数週間過ごしてきた身としては、久しぶりに血が沸騰するような興奮を覚える光景だった。なるほど、だから誰も戻ってきていなかったということか。 僕は、その縁日のようなナイトマーケットに翻弄されながらも、吸い込まれるように消えていったのだった。
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